悟りとは(PNSE、継続的非記号体験)

悟り(PNSE継続的非記号体験)とは

・私の本質とは何か、正しく理解すること

悟りを得ることによって、次のような変化が実感できます。

・思考の過程が明らかになり、不安や悩みから解放される

・良いこと、悪いこと、その両方について、捉われることなく、自由になる

思考は消せない

大前提として、「悟り=思考を消す」ではありません。

思考を消すことは出来ません。

すでにあるものは消せません。

たとえば、悟りを開くと、私の思考も含め、何かが消えさるということはありません。

よく、この世界は幻想と表現されたりしますが、気付いたからと言って、これまでの世界がどこかに消えさることはありません。

私は無である、などの表現も同じです。

今とは別の、隠されている真実(の世界)や本当の私というものが、代わりに現れるということも当然ありません。

いま、まさに目の前にあらわれている、この世界のみが唯一の世界です。

なぜ、思考を消そうと思うか?

私とは、「私の思考」そのものであるというあやまった認識と、悟りのイメージとして、「無我」、「空」などの概念が、正しく理解されていないことが原因としてあります。

悟りを開くためには、「無(空)」になれば良いんだな、思考を消せば良いんだな、という発想です。

私が無になったり思考が消えたり、ということはありません。

「私=思考」というあやまった認識

まずはこの認識のあやまりに気付くことが大切です。

でないと、全然違ったゴールや目標を設定してしまうことになります。

何年も何年も、あさっての方向へ突き進んだ挙句、なかなかゴールにたどり着けない、という状況になります。

そもそも、前提となる考え方があやまっているため、いくら努力しても、なかなか理解することが出来ません。

こんなことをやり続けても、悟りを開くことなんか不可能では、と不安な気持ちになったりします。

何となく、本能的に気付いてはいるが、なぜそうなのか、理解できていない状況です。

間違った地図のせいで、袋小路に陥ってしまっています。

なぜ、誤った認識に陥ってしまうのか

「私≠思考(”=”ではない)」という認識は、これまでの知識や経験からくる、いまの認識や直観とはあまりにかけ離れているため、なかなか受け入れがたいです。

知識や経験が増えるにつれ、「私=思考」という認識は、日常生活を送る上でも非常に便利な概念であるため、気付かないうちに、自然と、このような認識に陥ってしまいます。

この違いを認識しているのと、していないのとでは、理解のスピードは全く異なってきます。

人として、認識の世界で生きてゆける時間は限らており、思っている以上に短いです。

知らないが故に、無駄に時間が経過してしまうのはもったいないです。

ここが解決し、不安や悩みに捉われることなく、充実した生を送れるのであれば、非常に価値あることだと思います。

この非常に気付きづらい錯覚についてや、ではなぜ「私≠思考」と言えるのか、一つでも理解するための参考になれば幸いです。

「私」とは何か?

言葉にすると非常に誤解を招きやすいのですが、「私」とは、「全て」です。

が、同時に「部分」でもあります。

少なくとも、「私=思考」ではありません。

「私=思考」であれば、「私」が「私自身」を全否定することになってしまいます。

そもそも、そんなことは不可能です。

ここでジレンマに陥って、何年も足踏みする方も多いです。

「私」が「思考」ではなければ、「私が思考を消す」必要なんてはじめからありません。

思考が出ようが、何が出ようが、出てきたものは放っておけば良いだけです。

もともと、「私」なんていうものは存在せず、ただ、「全てが在る」だけです。

「私は存在しない」とはどういうことか?

「私は存在しない」と言われても、この身体は実感を伴って、確かに存在しているように感じられます。

「全てが在る」”だけ”、と言われても、そんなこと当たり前だと思います。

※気になる人にとって、それでも、「”なぜ”そうなのか」は非常に重要なテーマです

私は無になんかなれない、とも書きましたが、もう少し詳しく言うと、

・そもそも私という概念は実在ではない(無いものは消せない)

となります。

この身体は、私の思考も含め、他のあらゆるモノと同じ様に在ります。

が、それを感じている(経験している)”私”は、どこを探しても見つかりません。

ここが分かれば、本当に探してみたけど、どこにもいない、となれば、最終的には「観察者(空)」と「観察されるもの」が実感できます(大悟)。

ただ、最終的には、この二つの区分すら消え去ります(大悟徹底)。

ひたすら「ただ在るだけ」となります。