自由意志について

思考

右手を上げてみる。

右手を上げようと思ったから、右手を上げた、と思っている。

もう少し細かく見る。

なぜ、右手を上げようと思ったか?

右手を上げようと思う前、その行為に連なる、(記憶や刺激に対する)一連の反応の流れが既にある。

しかも、気付きづらいうえ、ややこしいことに、この一連の流れは、行為がなされるまで決して確定しない

行為がなされるまで、あらゆる選択肢と可能性が、幾重にも重なりあって存在している。

どちらの手を上げるかは全く重要ではない。

ちょっと逆らいたくなったので、右手を上げる直前に、私はやっぱり左手を上げることにするかも知れない。

左手をあげた瞬間、行為が確定した瞬間、思考がその結果に対し、「私はやっぱり左手を上げた」という意味を付けるだけ。

もう一つ、思考により意味付けされた行為のみ、自由意志だなんだとなるのであって、そんなものは認識の作用に過ぎない。

生きるということは、全て何かしらの行為から成り立っている。

意識していようが、していまいが。

無為の行為というものもある。

たとえば、右手を上げよう、とか、左手を上げよう、とか、一生懸命考えていた時、私は脚を組もうとしたかも知れない。

脚を組むという行為は全くの無意識のうちになされたとき、何もなければ、私の意識にすらのぼらず、そのような行為があったのか、なかったのかすら分からないまま、完了してしまう。

私の行為だったとしても、他人の行為となんら変わらない。

ひょっとしたら、脚を組んだ瞬間、あやまって、どこかに脚をぶつけたかも知れない。

すると、それをきっかけに、ふっと一念が生じる。

瞬間、私があらわれる。

思考が生じ、一連の(ぶつけた)行為は、私の行為となる。

私の行為として、実際に起きた行為として、記憶される。

ただ、意識にすら上らず、記憶に残らなかった行為ですら、なされているはず。

最後に、実は、私はどちらの腕も上げなかったかもしれない。

ただ、その結果について、私は自らの意志で、腕は上げなかった、と意味付けするだけ。

スポンサーリンク