自由意志がないのであればなぜ自我があると感じるのか?

思考

自我とは、外部の刺激と記憶の反応であって、ただの思考の働きに過ぎない。

会社にいれば会社員、学校だと学生、今いる環境と過去の記憶(入社・入学した)を照らし合わせ、状況に応じたいろいろな私を作り出している。

ところで、情報の記録だけならカメラやスマホでも出来る。

レンズなどを通して、写したデータがストレージに記録される。

機械に思考は生じない(今のところ)が私には生じる。

私は保存したデータを「私の記憶」として自ら参照し認識する。

私の目(レンズ)や体を介して記録した情報を、私の記憶(経験)として紐づけている。

しかも、主体(私)と客体(経験)を同じものとして(所有して)紐づける(入学したら学生になる)。

同じ様に、異なる情報と情報の関係性を見出し、情報同士を紐づけたりもする(ケーキは甘いとか)。

と、同時により好ましい情報に重みを付ける(より選択されやすくなる・・・・・・・・・・・)。

外部からの刺激にさらされ、内部の記憶と反応することで、意識のある間、絶えず思考が生じる。

この思考の働きを良く観察してみると、これは自動で生じている。

重みの付いた選択肢が、選択されるだけ。

より、自身にとって好ましい結果となりそうな、事前に重みを付けられた行為が、選択され、実行される。

そして、一番重要な点として、「行為になるまで、様々な選択肢が生じては消えていくが、最後に選択される行為は必ず一つ、かつ、その時限りの一度きりだけ」。

思考は、この、あらゆる選択肢(可能性)の中から、唯一選択され、実行に移された行為を、自らの意思で選択し、実行したものとして記憶する。

自動的になされた行為を、自らの意思で行ったと、行為した後に意味づけている

事実は、これまでの経験から、より合理的と思われる、事前に重みの付けられた選択が実行されているだけ。

勝手にニューロンが発火し、反応しているだけ。

それが思考の働きだから。

リンゴの実が木から地面に落下するように、眠くなったら寝る様に、お腹がすいたら食べる様に、外部からの刺激を受け、記憶が反応しているだけ。

生存率を上げるため、有利な選択がなされるよう、人間が獲得した脳力に過ぎない。

五本の指があると器用に道具を扱えるように、思考するという便利な機能を獲得しただけ。

思考だけがなぜか特別視される。