自我なんて幻想に過ぎないとはどういうことか

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

私は会社員とか、学生とか、いろいろな役割や肩書がある。

玉ねぎの皮を剥くように、私をどんどん分解してみる。

そういったものを全部取り去って、最後に何が残るか。

すると、そんなものは全く無くたって、「私はある」ということだけは、確かに言える気がする。

役割りや肩書は、このなんとなく曖昧な、私という存在を、より強固に、確実なものに感じさせる。

ただ在るだけではなく、他人からも(存在していると)認められている(気がする)。

※自己顕示欲が強い人は、肩書にこだわる人は、自身の存在をより確かなものに感じたい。

ところで、この肩書は、過去の事実や記憶に基づいている。

私は会社員というとき、過去にどこかの会社に入社した事実(記憶)があって、今の私はその人物と同じという認識を「今」している。

私は何某である、と言うとき、必ず過去の事実や記憶と、今の私が同一人物だという認識を前提としている。

夢の中の私について
ちなみに、夢の世界があまりにも現実とかけ離れていても、あまり不思議に感じない。夢の中では、夢の世界における過去の事実や記憶(という設定)と、夢の中の今の現状を照らし合わせている。起きているときと同じである必要は全くない(自我とは、「私は何々である」と認識する働きに過ぎない)。記憶を失っても、多重人格でも、今の私と照らし合わせる記憶(例えその記憶が誤りでも)があれば、それに応じた私が生じる。

そして、仮に時間と言うものを極限にまで縮小したとき、この比較はできなくなる(時間については別途)。

ページをめくっていないパラパラ漫画のように、なんの認識も起こらず、ただ在るだけ。

過去の記憶や事実と一切比較することなく、私は今あるだけになる。

赤ん坊の頃の私と同じく、比較できる過去の事実や記憶というものがなく、今の私と照らし合わすことがない(結果、私は生じていない)。

自我とは、過去の記憶と今の現状とを照らし合わせる、単なる認識作用であって、化学反応のように、一瞬一瞬、都度新たに生じるもの(作り出しているもの)。

極端な話、過去の私と今の私が同じだという確証すら必要ない。

自我の同一性について
記憶を塗り替えられたら分からない。というか、夢の中で同じような経験をみんなしているはず。夢では全く別人になっていても違和感を感じていない。起きて覚醒したとき、比較可能な過去の記憶を引き出せるようになったとき、過去(夢の中)の私と今(起きている私)とを照らし合わせ、同一人物だったと紐付けているだけ。こちらの方がタイムラグがありすぎて、どの様に私を作り出すか分かりやすい。

過去の記憶すら、今の認識作用の中にある。

前後ありといえども、前後際断せり。

自我はない(無我)というが、どう考えたってあるとしか思えないのはなぜか?

2018年11月23日

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