空であるはずなのにこの世はいろいろなモノで溢れているように見えるのはなぜか?①

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

自らを徹底的に観察すると、これまで私の本質だと思い込んでいた思考すら、ただの反応に過ぎないと分かる。

それでは私の本質とは何か?

この思考をも含んだ、あらゆるものを包含した「何か」があるような気がする。

この「何か」の中で、「何か」がモノを見ればモノが見え、聞けば聞こえ、同様にあらゆるモノゴトが現れては消える。

五感で何事かを感じれば、それが記憶と反応し思考が生じる。

思考とは実体のあるものではなく、見たら見える(光が網膜に達する)、聞いたら聞こえる(空気の振動が鼓膜に伝わる)と同じ様に、単なる現象(刺激が記憶と反応する)に過ぎない。

そして、この中では、今ここ、この瞬間、その様にすれば「必ず」そうなる様になっている。

ならないようにすることは出来ない。

見たけど本当は見てない、思考したけど思考なんてない、とはならない。

そして、「今ここ」に留まることが難しいとも言うが、その逆、「今ここ」から去ることは「決して」出来ない。

常に、いつも、ここ、ここにしかいない。

私はどこか、と問われたら、私は今ここ、この瞬間、このブログ記事を読んでいる

ここにいるのに、別の場所を、いるはずもない私を探しに行く必要なんてない。

ただ、そうは言っても、これらのことは、確かに在るし起きていると感じる。

在って、起きていると感じている主体は何なのか。

これら一連の作用の主体が思考ではないならば、その本当の主体とは何なのか。

思考の外から、あらゆるものを眺めている、経験している主体とは何なのか。

スポンサーリンク