思考としての私と「あるがまま」の私の違いについて

思考

日常生活では思考をフル活用する。

私の中心を、思考から「あるがまま」へシフトする。

シフトする前、私はまだ思考に留まっていて、「あるがまま」を外側から参照している。

※概念としての「あるがまま」

中心が「あるがまま」へ移った瞬間、思考は観察される側に入れ替わる。

観察する、と言うと思考っぽいので、言い換えて「思考がただ現れるまま」になる。

全てがただ現れているだけで、あらゆるモノゴトは並列になる。

思考(意識)が「あるがまま」を認識するのと、「あるがまま」が思考(意識)を認識するのとでは、仕方が異なる。

思考による認識は、対象に意味を付け、理解しようとし、取り扱おうとする(二元的)。

「あるがまま」の認識とは、あらゆる対象は並列で、意味もなく、ただ「在るという認識だけ」がある。

ただ「在る」だけ。

この時の主体には自己という概念はない。

対象に上下や優劣などはない。

そのような区別はない(「あるがまま」は思考ではないから付けれない)。

「在る」ことを認識するのに思考は必要ない。

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