意識が受動的であるなら能動的な選択や主体的に生きるとはどういうことか①

思考

自我は幻想に過ぎず、意識はただ記憶が外部の刺激と反応しているだけ。

だけ、と言っても大切でないことはない。

人として在るということは、思考するということ。

思考は、絶えず何かを分断し、一方を選択する。

そうすることで、必ず対立やストレスが生じる。

対立は闘争を生むし、ストレスになって自らも傷つける。

それが嫌だから、自ら思考停止に陥り、選択しなくなる人もいる。

そういう人は「選択しない」という選択をしている。

あるいは、「全て幻に過ぎない」と納得出来れば、苦しみから解放されると信じ、そう思い込もうとする。

悟りを得たい、は、苦しみから解放されたい、という欲求がベースになっていることも少なくない。

悟りを現実逃避の手段とはき違えてしまう。

選択の話に戻って、選択は必ず一つでも、ああすれば良かった、こうすれば良かった、と、悔やまれる選択は無数に思いつく。

「一方を選択する」ということは、「もう一方を選択しなかった」と思いがちだが、選ばなかった選択(可能性)の方は無数にある。

※醤油ラーメンにしたけど、味噌やとんこつにすれば良かった

なされた選択(やその結果)が受け入れられないと、無数の、選ばれなかった選択(可能性)ばかりが気になる(逃した魚ほど大きい)。

※なぜ味噌にしなかったのか、やっぱりとんこつにすればよかった

そこ(概念の世界)に捉われてしまうと、「今ここ」からは遠ざかり、疎外感が生じ、孤独を感じ、抜け出せなくなる。

※醤油ラーメンの味が分からなくなる

そうならないために、選んだ選択に納得する、選択した結果である現状について、ありのまま受け入れる。

納得し、受け入れるためにはどうすれば良いか。

全ての問題の原因は、他人や外部の方ではなく、内部(思考)から生じているということに気付く。

思考停止に陥って、日和見的に、周りに合わせてばかりになると、そこに気付けない。

注意深く思考を観察することによって、そのような働きを詳細に認識できるようになる。

思考に振り回されるのではなく、思考を取り扱えるようになる。

分断した世界に捉われることなく(無数の選択)、能動的に選択(思考)することによって、主体的に生きることがことが出来る。

※受動的であって能動的な、と言うところは書ききれなかったので、また今度にします。