自我とは実際のところ在るのかないのか

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

自我とは私を対象とする認識作用。

ところで、認識の対象となり得るものには、どんなものがあるか。

物質や概念など、私(自我)以外にも、あらゆる事物が認識の対象になる。

例えば、目の前のリンゴ(物質)を見た時、私は「リンゴがある」と認識する。

時間はただの概念でも、「時間がある」と認識する。

物質でも概念でも「ある」と認識される(認識作用にとってはどちらであっても関係ない)。

「私がある」と言うとき、私には「心」と「身体」があるが、問題になるのは「心」の方。

身体は実際に目で見て、触れられるし、リンゴのように実体を伴っていて、確かにあると感じやすい。

心はどうか、というと、時間と同じ様に形も見えないし、触ることも出来ないし、在るものなのか、無いものなのか、良く分からない。

概念は在るのか、無いのか、在るという人も言えれば、幻に過ぎないという人もいるし、惑われやすい。

見方によって、在るとも言えるし、無いとも言えるから、どちらも正しいとも言える。

よく、「自我なんて無い」と言うとき、実在(物理量)としての有無について言っている。

ただ、実在(物理量)としてなくても、認識作用は概念に対しても働く。

そして、認識には、思考による認識と、直接の認識がある。

思考による認識は、限定された(或いは誤った)前提に基づいていたり、ある側面だけを切り取って理解しようとするため、取り扱う人によって解釈が異なる(群盲象を評す)

また、思考は入れ子構造になっていて、「”思考が思考する”という思考メタ認知)を行うことによって、自我が生じる。

自我(私を対象とした認識)とは思考の産物であって、思考そのものとも言える。

で、自我(思考)はあるのか、無いのか、というと、概念としてある

リンゴや時間と同じ様に、ただそのように(自我として)在る。

認識される対象としてある。

自我や時間は概念として在るのであって、たとえ幻だったとしても、それを感じる(認識する)ことによって、在ると言える。

この世界は、認識そのものとも言える。

では、それを認識している、思考でもない、本当の主体とは何なのか。

「あるがまま」とか、表現はいろいろあるが、この世界の働き(活動)そのもの(諸行無常)。

それを思考ではなく、直接認識すること。

認識する、と言うと行為を連想するが、ここで言う直接の認識とは、行為者のいない認識のこと。

思考による認識とは別に、「生」という活動によって、根源から自然と起こる(湧き出る)もの。

あらゆる事物が、ただ只管に在るとして認識されているだけ。

リンゴがあるように、思考があるように、あらゆるものがただ在る。

思考は、ただ在るだけのものを分断し、意味を付け、扱いやすく加工してゆく働きに過ぎない。

思考に認識されたものは、そのものではなくなっている。

どうしても、認識の、行為の主体者を言葉で表現すると、「生(命)」かな。

言葉にすると、メタメタしてしまうけど。

物質としても概念としても、その両方について在ると言える。

全てはただ在るだけ。

思考で扱うような意味なんかない。

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