思考というタマネギ

思考

いろんな思考が同時に浮かんでは消えている。

そこから実際に選択され、実行に移される行為は必ず一つだけ(同時に二つのことは出来ない)。

どの瞬間を切り取っても、絶えず唯一つの行為だけが選択され、実行されている。

「思考する」という行為や「何もしなかった」という行為も含めて。

その行為の記録(記憶)一つ一つが、その行為を行った人に紐づけられ、蓄積されることで、私という自我が生じる(エピソード記憶)。

その他にも、他人の行為やあらゆる事象が、絶えず移ろい変化しながら生じたり消えたりしている 。

私に関係するものだけを、私に紐づけ(関連付け)、記録し、蓄積されたものが「私」になる。

他人の行為を、私がした、として紐づけたりはしない。

月が昇ったのを見て、私が昇ってきた、とは思わない。

ところで、ただ記憶(記録)するだけであれば、コンピュータなどの記憶媒体や、文字で書かれた本と同じ。

コンピュータは定型的な指示を受ければ、決まった反応を返すことも出来る。

私たちは、ただ記憶するだけではなく、反応するだけでもない、主体としての実在としてあるようで、自由意志があるようで、不思議な存在として(私を)感じている。

なぜ、私をユニークな存在せしめて、他と区別してしまうのか?

区別するということは、先にも書いたけど「ある特定の事象が起こった原因を私として紐づける」と言うこと(”私が”~した)。

なぜ、そうする必要があるのかというと、私(という生命)が、より良く生きてゆくため。

生命の根源的な欲求(本能)であって、ただそれだけ。

より長く、快適に、生を長らえるために、そのような働きがただ機能として備わっているだけ。

快や不快の分別が生じるのも、生きる意味や目的について悩んでしまうのも、今よりもっと上手に、同じ失敗は繰り返さないように、生を長らえたいだけ。

「生きる」という衝動が沸き起こっているだけ。

「より良く生きる(生存率を伸ばす)」ために、思考という機能を使って、「ああだ」「こうだ」とやれてしまうが故に、本来の手段(思考)と目的(生)が逆になってしまって、思考が生の主体と感じてしまう。

私たちは単に「生きている」だけであって、そのためにプラスになるものを「心地よい」と感じるのであって、脅威となりそうなものがあれば「避けたい」と感じるのであって、ただ、そのように繰り返し反応しているだけ。

そうやって大切にし、継続させたいと思うものが「私(命)」であって、「生きている」ということであって、生きとし生けるものは全て同じ。

「私」という概念がないと、車が突っ込んできても、避けようという意思も湧かないので、私はあっというまに消えてしまうのであって、単にそれだけ。

思考(自我)は、「生きる」ために備わっている機能に過ぎない。

私と言う概念を作り出して、思考(自我)を機能させて、自他の区別をすることによって、「より良く(長く)生きよう」としているだけ。

思考という機能があるだけで、思考という実体がある訳ではない。