全てはただ在るだけで、在り方が違うだけ

思考

全てはただ在るだけ、私の中でも「在る」という認識しか起きていない。

ただ、一つ一つの在り方が異なるから、思考が分別して違うものとして扱っている。

「在る」と言うとき、質量もあって、見て、触れる物質などは、直観的にも「(本当に)在る」と感じ易い。

ただ、「在る」ことに関して言えば、音や色や思考も同じく「在る」だけ。

音は空気の振動として在る、色は可視光の波長として在る、思考は脳の配線や発火のクセとして在る。

「暑い」や「寒い」などの感覚も同じ。

いろんな媒介や受け取る器官によって、全く異なるモノの様に感じるけど。

全てに対して共通して言えることは、ただ「在る」という認識しか、私の中には起きていないということ。

それだけなのに、「在り方」によって思考が分別して意味を付ける。

思考もただの状態、在るだけなのに。

思考も「認識される」側なのに、なぜが思考が「認識する」と感じてしまう。

思考が認識するのではなくて、思考は分別するだけであって、認識はそれに先立って起こっている。

何が認識しているのか、なぜ認識しているのか。

認識する、と言うより、認識が起きている。

犬や猫でも認識している。

生き物だから、生きとし生けるものは認識している。

認識の度合いは、起きている事象と私との関係性を如何に紐づけられるかの違い。

私は鏡に映った私を私と認識できるけど、猫にとっては難しい。

どれだけ関係性(因果)を理解して、私と紐づけられるか、の違いでしかない。

もっと高度な知性があれば、私(人間)には見えない関係性も見えるかもしれない。

鏡に映った私が私と認識できるように、目に映った他人や環境すら、私と認識できるかも知れない。

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