知識そのものに価値があるというより、どう活かすかの方が大事

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

私は「こう」思う。

正しいと思うけど、確証が持てない。

本やインターネットで、様々な人の話を聞いたり、知識を得たり、新たな洞察を得たり、今はいろいろな方法で論理を補うことが出来る。

「そこ」に至るためのヒントや道標は沢山ある。

最終的には自ら探求し、直に発見する必要があるけど。

どの方法が一番良い、とは言えない。

一人ひとり異なるから。

その時々の理解力、気分、向き不向きなど、いろいろ内外的な要因もあるし。

”あるがままのもの”は非常にシンプルだから、いろいろ知識や経験が増える前、常識で思考が雁字搦めになる前、シンプルに問いが発っせられ、探求を開始することが出来たならば、もっと簡単であるのかも知れない。

知識や経験が増えれば増えるほど、自我はそれを身に纏って、より強固で、堅牢になってゆく。

自我は私を守りたいから。

絡まった糸は少ない方が簡単にほどける。

そう難しく考える必要はないですよ、ということを言いたいだけ。。

ただ、そうは言われても、これまでにこびり付いた思考の垢は簡単には落とせるものではない。

「絡まった糸を解きほぐす」には、どうすれば良いのか。

この「糸を解す」作業が自問自答でもある。

なぜ、そう考えるのか、そう感じるのか。

この「なぜ」も人によってさまざま。

お金を稼ぎたい。

なぜ、稼ぎたいのか。

働きたくないから?

なぜ、働きたくないのか?

人間関係が煩わしいから?

もっと楽をしたいから?

傷つきたくないから?

繰り返して行けば行くほど、根本の欲求はシンプルなものになる。

シンプルなものは理解し易いし、対処し易くなる。

同じ文章でも、読んだ時の気分、知識、経験、状態が違えば、印象も全く異なる。

はじめは攻撃や非難と感じても、実は私のことを思ってくれての、ということもある(あまりないけど)。

一つ一つ解消して行くしかない。

向き合うのは大変だけど。

向き合わずに他の”手段”に逃げても何もない。

いろいろな人や知識や考えに触れて、思考の仕組み、構造を理解する。

虚構と見抜けば、勝手に瓦解する。

知識は中身が大切なのではなく、そこから何を学ぶことができるか、なぜ、そうであるのか、理解するためにあるし、使ってなんぼ。