決着した後と前では何か違うか?また、決着を目指すべきか?

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

決着しても、していなくても、特に大きな変化はない。

であれば、今のままで何ら問題はない、とも言える。

でも、どこか異なっているはず。

二つの違いを、知っている、知っていない、ことの違いとする。

例えば、二つのワイン入りグラスがあって、一方は毒入りだとする。

私はどちらか一方を選択(飲む)しなければならない。

ただ、私はどちらが毒入りワインかを知っている。

または、大好きな異性がいたとする。

私は、その異性と相思相愛かを知っている。

あるいは、とても大きな心配事があるが、それが結果的にうまく行くかどうかを知っている。

知っている、というだけで、大きな安心感が生まれる。

知らなければ、ただでさえ忙しく、時間のない状況の中で、そこから更に悩む(探求)事へ時間を費やさなければならない。

決着した人は、そもそも、その様に思い悩む主体すらない、ということを知っている。

だから悩みようもなく、多くの貴重な時間やエネルギーを、本当にやるべきこと、打ち込むべきことに使うことができる。

※厳密には悩み事やあらゆる欲が抜け落ちることはない(捉われなくなるだけ)。その様なことを言う人は恐らく分かってない。

また、厳しい現実、思い通りにならない現実から逃れるため、逃避のため、その様な境地に至りたいと願うこともある。

ただ、その様な動機に始まった思索は、多くの場合は徒労におわる。

何かになろう、何かから逃れよう、とする行為は、今というこの瞬間から離れるということだから。

分かるとは、今ここ、ありのままの現状が、そのままで、何をせずとも、既に完璧であるということを「心(とします)」で理解するということ。

いろいろな書籍や経典を読んで、理屈を頭で理解(あるところまではそれも重要だが)するということではない。

心(気・・)で理解するためには、自らが探求し、見つけ出さなければならない。

アハ効果みたいなもの。

自らの体験によってのみ理解できる。

決着すれば、それなりのメリットもある(結果的に)。

でも、全ての人がそうある(なる)べきと言う訳ではない。

そもそも、そんなことは関係なく、もともと、大らかで、慈悲に溢れた方もいる。

その人が、それを求めるかどうかは、気質によるところもある。

そういう意味で、思索(探求)自体を続けてゆくことが、良いことかどうかは人による。

かける労力(努力)と、結果を天秤にかけ、今目の前にある現実の世界に全力で打ち込んだ方が、良い結果に繋がることもある。

何れにせよ、私がどう感じるか(したいか)によるかな。

無理する必要もないし、気分転換に他のことに打ち込むのも良い。

再び、始めたくなったら、その時はまたそうすれば良いだけ。

あと、気付いたからと言って、どうせ私は幻想だからと言って、世の中何をやっても良いとか、自暴自棄になることはない。

そもそも、欲が抜け落ちているのだから、他と衝突すること自体あまりなくなる。

あと、その様に考えて(思索して)しまったり、感じてしまう自分を嫌になってしまう人もいる。

けど、そういう人が分かった後は、繊細で、自らも御し難い、あふれ出てくる衝動や情動のエネルギーを、目的のために使う(振り分ける)ことが出来るので、人生が好転しやすくなるとも思う。

苦労をした人がそれを乗り越えられた時は、それなりの成果(結果)も自然と出せるようになる。

あまりそういうことを書きすぎると探求を進めてるみたいだからそろそろやめときます。

その時、その時、したいことを、自分に正直にやってみるのが一番かも。

以外に私は自分自身が本当にやりたいことを分かってたりする。

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