教えに良い悪いはあるのか

思考

所謂、”あるがままのもの”とか、”悟り”は、頭では分かるんだけど(論理だっている様に感じるから)、現に私が体験している事実や認識とは矛盾していたり(私はないとか)、直観に反していると感じたりする。

または、良く分かってはいないけど、真実とはきっとそのような(良く分からない)ものであろう、と他人や書籍の言うことを鵜呑みにし、妄信したりする。

他人の言に依る場合、相手がきちんとした人であれば良いけど、そもそも思い悩んでいる人に、誰(どこ)なら良いなどは、なかなか分かりづらいと思う。

ましてや、今すぐ藁にも縋りたいと思っている人にとって、そんなことはどうだって良いことなのかもしれない。

好ましくない、受け入れがたい現状から、今すぐにでも救ってくれそうな、それらしい言葉や教えを、それとなく(その様な方法があると)仄めかされたら、何にでも飛び付いてしまうかもしれない。

あるいは、特に悩みはないが、平和なこの世の中で、有り余る時間を持て余し、深遠な探求にのめり込んで、延々と時間と精神を消耗し続けることもある。

まぁ、新しい試みやチャレンジに臨む場合、一発で当たりを引き当てよう、と言うこと自体が難しいことなのだけれど。

そもそも、この、考えても(思考では)答えが出ない、という形而上学的な問いの特徴や性質も、魅惑的で、神秘的なイメージを与える。

的屋が当たりのないクジで客を釣っているようなもの。

それこそ自ら目を閉ざし、あるはずもない、虚妄を、延々と探し続ける羽目になる(ぶら下がった人参を追い求め走り続けるように)。

また、頭の良い人ほど、いくら真実は単純ですよ、シンプルですよ、と言われたところで、真実がそんな簡単なものであるはず(良いはず)がないと言う。

求めている人は、難しい方が、高尚な方が、正しいし優れているかの様な印象を抱く。

簡単なゲームより、すこし難しいと感じるゲームの方が嵌りやすい。

また、それを利用する側にとっても、簡単に分かられては困る(商売にならないし)。

何かは良く分からない、簡単には分かりそうにない、その特別感に価値があるのであって、高額なセミナー等であっても参加者が集まるのにはそういった理由もあるのだろうと思う。

利用する側も、そういうことが分かっているものだから、何やら小難しい専門用語や、格式ばった、格調高い、荘厳で、神秘的な儀式や手順を踏まなければ、真理には到達できないと謳う(文化は大事だと思うけど)。

それを知るためのノウハウは、秘匿されていて、知るためには仲間になれ、ただではないよ、とやる。

真贋も分からない様なものに手を出す位であれば、禅などやっていた方が良い気がする(そう言う私が禅など良く分かってませんが)。

以前、云百万をつぎ込んでいた方が近くにいたけれど、それによって少しでも何か得られたものがあったのであれば良いなぁ。

ちょっと昔を思い出したもので書きました。

スポンサーリンク