あるがままに”見ない”とはどういうことか(続き)

思考

目を瞑むれば真っ暗な様子があるだけ。

その時、その時、感じられるものが全てであって、それ以外がある訳ではない。

余計な視覚情報に惑わされない分、私が今、何(だけ)を感じているか分かり易い。

注意深く観察してみると、暗闇だけでなく、いろいろなモノがあることに気付く。

例えば、椅子に座っていたのであれば、椅子に触れている感触がある。

ただ、私が触れている(座っている)ものが、椅子かどうかは分からないはず

椅子だと思うのは、先ほど私が、いつもの椅子に腰かけたことを知っているから。

私が、いま、感じて(読み取って)いる情報からだけでは椅子かどうかは分からない。

例えば、そのままの(椅子に座って目を瞑った)状態で記憶を失ったら、いま、私が何に触れているか分からないはず。

※何が入っているか分からない箱の中に手を入れるみたいな

すると、私は、いま、何を感じているのか?

何かを感じているのではなく、ただ感覚だけがある

”何かに触れている感覚”を探すのではなく、感覚そのもの(がどのようなものか)を観察する。

もっと言うと、この身体がなかったとして、腕や脚の位置も形も分からなかったとしたら?

ただ、感覚だけがあるとだけしか分からないはず。

感じている私もなく、感じているものもなく、ただ、感覚だけがある。

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7 件のコメント

  • 最近このブログを見つけ、興味深く拝見しております。
    少しばかり疑問があるのですが、不躾ながら、よろしいでしょうか…

    「感じている私はなく、感じているものはなく、ただ感覚だけがある…」
    主客なく事実のみある、ということかと思いますが、
    それでもまだ“その感覚を認識する主体”が残りませんか…

    認識するものがあるということ自体が後付けの思い込みとも言えますが、
    どうにもこのあたりがキレイに腑に落ちないのです。。。

    • 同じことの言い変えですが「感じている私はなく、感じているもの(ここでは感情のこと)はなく、”感覚になる”」という表現の方が実感に近いと思います(見たもの、聞いたものになる)。
      感覚が感覚を認識しているから主体はある、とも言えますが、文法的に正しくても内容に意味はないです。
      これは私の勝手な想像ですが、恐らく問題は思考(解釈の仕方)であって、”私の思考とは何か”を理解する方が分かり易い気がします。
      ここが、おっしゃている”腑に落ちない”ところであって、そこを飛ばして”あるががまま”を理解しようとしても、必ず思考によって捉えようとします。
      ※思考は直の(主客のない)認識があると思えない
      思考とは何か、が分かると、思考のない認識も理解し易いと思います。
      ブログには全部書いてるつもりですが、また何かあればコメント下さい。
      ご期待に添う回答が出来ないかもしれませんが何でも結構です。
      不躾でもなんでもなく、コメント頂けて嬉しいです(_ _)

      • かれん様、返信ありがとうございます。とても参考になります。

        せっかくですので、続いて少しお聞きしてもよろしいでしょうか。
        なお、かれん様の境涯に疑義があるわけではございませんので。

        拝読して思うのは、結局のところ、最終着地点がよくわからないのです。
        探求が終わらないと申した方が直截かもしれません。
        ①認識・思考が介在した状態をも”あるがまま”と見て、全部よし、とする…
        ②自動的な認識・思考を排し、感覚が捉えた状態のみを体得する…
        あるいは、まったく異なる見地があるのか…
        自由意志がなく、連綿と続く“今”に介入しえないことを思えば①のようにも思いますが、
        ②を主張しているように感じる人などもチラホラ…

        自由意志論につきまして、かれん様と同じように感じておりますが、
        ネットによればこんな記事もありまして、なかなか整理がつかないのです…
        https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

        何だか、とりとめのない質問ばかりして恐縮です…

        • ①②は何れも思考の異なる側面について、おっしゃってると思います。
          ある特定の“状態”を目指す試みは思考の働きです。
          なぜ同じモノ(思考)を別のモノとして感じるかと言えば、まず、思考は大まかに二つの種類に分けることが出来ます。

          ① モノゴトの関係性や意味を理解した上で、深く考えるためのもの(自由意思はあると感じる)
          ② 外部からの刺激や記憶の反応等によって、無意識的に生じるもの(自由意思はないと感じる)

          自由意志の有無については、良く意見が分かれるところだと思いますが、上記は何れも思考の異なる側面です。

          思考は何かしらの入力(刺激や記憶)に対する反応です。
          ①も原因を遡れば、何かしら元となる入力があり、入力に対する出力(反応)という意味で自由意志はありません。
          反応が起きた(前後の)瞬間には、それまでの過程が多くの情報や複雑な関係性で覆い隠されてしまい、抜け落ちてしまっています。
          限られた認識の状態にフォーカスしてしまうことで、あたかも自由意志があるかのように感じます(錯覚します)。

          自我がある、ということと、自由意志がある、ということは同じです。

          直接の回答になっていないかもしれませんが、補足があればまた追加しますね。

          • (補足)
            なので、お答えとしては“まったく異なる見地”となるかと思います。
            が、これとご質問の①は、言葉で表現すると非常に似た(と言うかほぼ同じ)表現となってしまいます。
            カレンの言う“まったく異なる見地”とは、思考に依らない直の認識です。
            ※これを理解するためには、思考とは何かを見抜くことが大事だと考えており、ブログのテーマにしてます
            そして、この直の認識は、物体や概念(思考も)など、あらゆるものを認識します。
            “直の認識による思考の認識”と“思考による思考の認識”は全く違います。
            ですので、ご質問の①は、直の認識に依るならば正しいです。
            が、それ(直の認識)が出来ていれば、コメントで頂いた様な疑問は生じないため、思考による認識をされてらっしゃると思います。

  • いろいろ聞きたいことはありますが、
    このくらいにしておきます。

    多分、このあたりの議論を始めると長くなりますし、
    おそらく知的理解でどうこうするものでもないでしょうし。
    ただ、ご回答のおかげで、いくつか気付きを得ることができました。
    ありがとうございます。

    今後もブログを拝見させて頂きますね。

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    伊庭野(いばの)カレン。
    思考を切り口に悟りの考察をしています。神社やお寺の雰囲気が住みたい位に好き。
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