探求という行為の良いところ悪いところ①

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

好きなことを見たり、聞いたり、したりすることは楽しい。

それに没頭しているとき、文字通り、自分の存在や時が経つのも忘れるくらい。

この対象と一体化した感覚を、私がいない、無我、迷いのない、ワンネス、等々の境地と言えば、そう言えないこともない。

そうだと言い切らない理由は、私が意識せず、理解せず、たまたま、その様な状態になっているだけだから。

思考しているが、それをしている私がいない状態がある、ということは、これで何となく分かると思う。

思考のない行為は、意外と誰でも経験している。

”私がしている”という行為者があらわれるのは、行為の後、その結果(記憶)を想起し、それをした主体(私)と紐づけたとき。

この行為から想起までの感覚が非常に短く、思考では追いきれない。

というか、そもそも、思考は実際、行為が終わった後のみしか現れない(ので本当に当たり前のこと)。

思考がそれを捉えられない、ということは、”今”という時間を思考が捉えられない、ということと同義で、別の表現で言っているだけ(コインの表裏)。

ただ、これ(我を忘れて何かに没頭すること)には逆パターンもあって、私が恐れていること、嫌なこと、捉われていることなど、マイナスの感情や状況に対しても当て嵌まる。

心配事で頭が一杯になり、やるべきことにも手を付けられなくなる。

やらなければならないけれど、てんで手を付けられず、気が付けばただ時間だけが過ぎている。

やるべきことはまだ沢山あるのに、それをやる時間はどんどん少なくなってゆく。

また、気が焦る。

すると、更に手が付けられなくなり、悪循環に陥ってしまう。

一方、現実の世界にとってそんなことはお構いなく、刻一刻と周りの状況は変化し続ける。

いよいよ、私だけでの力では、二進も三進も行かなくなる。

すると、外に解決策を見出し(探し)はじめる(逃避する)。

そもそも、仕事をしなければ食っていけないし、義務を果たさなければトラブルを招く。

腹が減ったら食べるし、眠くなったら眠る。

悟ったからといって、霞を食って生きてゆけるようになる訳でもなく、生きている限り、何かをし続けなければならない。

ルールは守らなければならない、義務も果たさなければならない。

嫌なことだけを放棄して、ただ、好きことだけをやれるようにはならない。

そこに捉われなくなるけど。

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