探求という行為の良いところ悪いところ②

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

そして、「私」が嫌なこと、したくないこと、苦しいこと 、から逃れるために、探求にのめり込んでしまうこともある。

そのような場合、実はその動機(逃れたい)を果たすことが目的となっていることが多い。

それが悪いことだ、と言いたいのでなく、そのような動機が、本人でも気付かない内に(探求の)足枷となっていることが多い、ということ(を言いたい)。

逃れるため、振り回されなくなるため、あれこれとそれらしい考え方、教え、手段を追い求めはじめる。

問題なのは、それ(苦しみ)から逃れたい一心で、却ってそれを強化し、同一化し、逃れられなくなる、ことがあるということ。

しかも、厄介なことに、恐れからくる、逃れたいという欲求(願望)は、非常に強固な衝動として、私を突き動かす。

”脅威(恐れ)から逃れなければ”という衝動は、生きるための本能であって、強固であるが故に、魅力的ではあるが誤った認識(カルトやブラック企業)だったとしても、ひとたび同一化し、取り込まれてしまうと、それらと強く結びつき、自らの力や努力だけでは如何ともし難くなる 。

なぜその様な衝動が強固かと言えば、その様な場面において、いち早くその場所(状況)から離れなければ、生命の危機に瀕するから。

隣に空腹な獣がいて、逃げなければ食われて死ぬ(恐怖に対する感情は強固で、素早く実行に移さなければ意味がない)。

また、その様な場合、多くは思考停止に陥ってしまっているため(思考すること自体が苦だから) 、尚更のこと自らの意思で抜け出すことが難しい。

更に厄介なことに、その様な動機から始まった努力(行為)では、決して求めているもの(真理)に辿り着くことが出来ない。

必死に求めれば求めるほど、却ってそこから離れてゆくし、隠れてしまう(不安で覆い隠される)。

何かの教えに従うことで、手順を踏むことで、問題が根本から解消することはない。

また、何かのきっかけで、神秘体験や一瞥っぽい体験をしてしまうことで、今度はそのような状態に捉われて(依存して)、それを求めてしまうこともある(快楽ボタンを押し続けるラットの様に) 。

所謂、神秘体験、一瞥体験、自分が宇宙一杯に拡大したような感覚、幸福感に満たされ涙が溢れた、等々の”体験”は、悟りでも、解決策でも、なんでもない(ただの状態)。

そう言う人は寧ろ疑った方が良い。

却ってその体験をしてしまったが故に、それを求めてしまう結果となり、新たな苦にさえなる。

何とかそれを再現しようとし、今度はもっと長く、もっと頻繁に、とやり始める。

そして、それが再現されないと苦しむ(体験が強烈であればあるほど、苦しみも大きくなる)。

そんなものが、解決策であるはずがない。

百歩譲ってそうだとしても、ずっと恍惚とした人間がいたらなんか気持ち悪い。

本人は良いかも知れないが(良いことはないが)、社会生活も真面におくれるはずがない。

その様な試みは、問題や解決策を単にすげ替えているだけであって、単なる対症療法に過ぎない。

例えその様な体験をしたことがあると言ったって、心にひっかりが生じたままであれば、元の状態に戻ればまた(苦しみは)再発するだけ。

そんなものは、私(の脳)が作り出した、偽りの、ただの幻想に過ぎない。

分かった人は戻らない、というのは、そういう訳だから(外に依存している訳ではなく内で自己解決しているから求めようがない)。

再度求めている様では違う。

自信がなければ(確信が持てなければ)違う。

そもそも、その様(これがそうなのかとか)に悩んだりしない。

それこそ、そのまんま、まだ悩んでいるということ(当たり前)。

そこに至る段階はいろいろ在るかもしれないが、至れば深い、浅い、はない。

他に確認することでもない。

いろいろ脱線してしまったが、通して言いたかったことは、悟りなんか開かなくたって良いし、好きでチャレンジするのも良いし、ただ、誤った認識にだけは陥らないよう気を付けないと、ということ。

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