思考は“あるがままのもの”に気付けるか

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

思考が経験しているのではなく、思考は経験に意味付けしているだけ。

必ず、①経験、②思考(意味付け)の順番になっている。

思考は経験しない(出来ない)。

例えば、火に触れた瞬間、まず熱いと言う経験が起こるが、それを経験している主体は思考ではない。

これは本当に言葉通り、そのまんまの意味なんだけど、意外と読む人によって様々な解釈をされているのかも。

文脈からでも分かると思うが、“思考が経験する”はおかしいし、文法自体は正しくても意味をなしてない。

思考は意味を与えたり、考えたりするただの働きであって、経験する主体になることは出来ない。

思考は、いつも”あるがままのもの”より古く、既に起きたことを後付けで(言語化とかして)解釈している。

この過程の中で、“経験した私(=思考)がいた”という誤った認識が生じてしまう。

私は熱かった、私は楽しかった、私は嬉しかった、と言うとき、その経験が起きていた(直の認識)だけなのに、その場にはいなかったはずの“私”が、あたかも経験の主体として存在していたかの様な錯覚を生じさせる。

思考が扱う対象は、必ず、いつも、この世界からは既に過ぎ去って(消え去って)しまっているものであって、今と言ったとき、今はもう過ぎ去っている様に、思考が起きたとき、その対象となる経験は既に終わっている。

思考とは別に、思考よりも先に、必ず経験のみがある。

そして、思考も経験されている(起こっている)。