行為する主体を立てなくても事実は生じる

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

「見る」と言う行為を観察するとき、見ている主体(私)を連想しがちだけど、「見えている」という“事実”だけを切り取ってみたとき、「私」はいなくても問題ない。

「見えている」という事実だけがある。

そもそも「見ている私」がいなければ、「見えている」という事実は生じない、と多くの人は感じる。

そうなんだけど、そのような(主体が抜け落ちている)ときには”行為”はなく、見えている対象だけが“ただ在る”。

つい主体を立ててしまうのは、主体がないと成立しない様に感じるのは、そのような感じ方に慣れてしまっているから。

主体を立てなくても、目が開いていれば、いくら見ない様に頑張っても、必ず“見えて”しまう。

何もないままでいることも出来ず、淡々と事実のみが生じては滅しているだけ。

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