モノにも仏性はあるか②

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

①のとき、視覚(眼)以外の知覚(聴覚など)も生じているが、意識には昇っていない。

複数の知覚の中から、②によって紐付けられたある特定の知覚(①の例では見ると言う知覚)が私の経験(①+②)となり、その経験、瞬間、記憶の積み重ねが、私というユニークな存在を作り上げる。

※思考はあらゆる知覚と結びつく

①→②→①・・と続く断片の連なりが、実体のない私という存在を感じさせる(フィルム映画やパラパラ漫画のように)。

もう少く細かく観察すると、①の特定の知覚とは「知覚の対象+感覚」の組み合わせで、これが②の思考と紐付けされている。

「知覚の対象」と「感覚」の何れかが欠けても知覚は起こり得ず、思考が紐づく対象もなく、私も生じない。

「モノ」は知覚の対象であり、私を構成している、私の一部とも言える。

翻って「モノ」を見るとき、私を見ている。

「モノ」は私であるとも言える。

その様に見るとき、主体としての私はない。

私に仏性があるのならば、私の一部である「モノ」にも仏性がある。

あらゆる存在が私という在り方をするのであれば、存在する全てのものには仏性がある