私という実体が存在しなければ、なぜ在ると感じるのか?①

悟り(PNSE、継続的非記号体験)

私という実体はないけど、便利だから私という主体をたてる

なぜ私が在ると感じるのか?

私(自我)はどのように生じるか

私(自我)という「実体」が、あらゆる行為の「主体」として存在すると感じる。「~に注意を向ける」、「~を感じる」というとき、注意を向けている私、(五感で)感じている私が在ることを前提としている。

「自我を消す」というとき、多くの人はこの前提に立って、「消えない」、「消せない」となってしまう。なぜそうなるかというと、その前提が間違っているから。

そもそも「私という存在(自我)がない」のだから、それ(在る)を前提としてもうまく行かない。

「私(自我)」は、その時々の注意(意識)の対象と、これまでの経験(記憶)が紐付くことで生じる。そして、その対応関係(関係性)が常に変化することで、新しい別の私が、絶えず生滅を繰り返している。

※まりぽよがギャルになる

私とは、モノゴトの関係性において規定される概念であって、私という実体が存在するのではない。

モノにも仏性はあるか①

2019年5月4日

モノにも仏性はあるか②

2019年5月5日

なぜ前提が異なると私(自我)は消えないか

(どの様な在り方であれ)、一度生じた事実(私)を、後からなかったことにすることは出来ない。

分別された自己が、(二元的に分かれてしまった)嘗ての私を、再び拾い集め、統合することは出来ない(割れたガラスは元に戻らない)。分別された自己を消すことで、全体が残るわけでもない。

一如とは、分かれる前の源(本)流であって、自己を観察し、支流に分かれる前の状態へと還ることで、「私という実体はない」ということに気付く。

実体がないのであれば、何がどうなっているのか?

そうは言っても、私(自我)は在るし、認識は起こるし、世界はリアルな質感をもって在ると感じられる。何かしら(他に働きかける)主体がなければ変化することもなく、世界はもっと滑っとした、のっぺらぼうで、無機質な、つまらないものである気がする。

そして、実感はその真逆で、変化や多様性に溢れ、様々な事象が絶えず起こっている。諸行は無常だと言うし、やっぱり何かが在って、変化しながら、続いている感じがする。

敢えてモノゴトを主従の関係で見たとき、主は世界で、従は(私も含め)その他になる。私は、世界の働きかけ(在るという在り方)に対し反応しているだけで、世界(刺激)が先に、私(反応)が後から生じる。

この反応を起点(主)に、主従を逆転してしまうことで、主である私が世界をコントロールしているという錯覚に陥る。もちろん、そんなことは不可能だから、うまく行くはずもなく、苦や葛藤が生まれる。

どのような働きが私を生じさせているのか

世界(環境)が、そこに在るあらゆる対象に働きかけることで、必然的(自然)に、生命や私(自我)が生じたりする。

五感が世界(環境)からの刺激を受け、脳が(関数的に)反応し、私(自我)というアウトプットが生じる。アウトプットの結果を新たな刺激と見做し、世界(環境)とは相互作用的な関係と見ることも出来るが、全体から見たら一部の、狭く閉ざされた環境でしかない。

そこを過大に見積もり、限定された循環の働きの中で、創発的に生じた結果が私(自我)とも言える。

(続きます)

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